单项选择题

[一]

読者にとって、原稿が手で書かれていようが、パソコンで作られていようが、ほんとは何の関係もないことだ。最終的には活字体の文字となって、印刷された形となってくるのだから。
今、人々が一般的に、どういった方法で文章を書いているかは定かではないが、少なくとも僕は、ほんの些細なメモ以外は、ほとんどすべてパソコンで文章を書いている。いや、書いているというのは正しくない。打っているのだ。この二十年近く、手で文章を書くことから遠ざかっていた。もちろん、それは、パソコンを使ったほうが、手で書くよりも、簡単に文章ができるからである。そして、文章化した後の工程も電子化されていることが多いので、(つまり、電子メールなどで送ること)そっちについても簡単だというわけだ。
しかし、簡単だからといって、こうした電子機器を安易に多用することの弊害はもちろんあるのだろう。いろいろなところで言われているように字を忘れたり、文章が平板になったり、無味乾燥になりがちだというようなことだ。とはいえ、弊害が多々あるからといって、じゃ、すべて手書きに戻し、今の便利さを捨て去ることができるかといえば、それはそうではない。やっぱり、世の中の流れとしては、どうしても容易、便利さが優先されてしまう。
もう一つ、ぜんぜん別の角度からの弊害もあることに気がついた。それは、本来、手で書くということは、書道という芸術があることで、示されているように、楽しさでもあったのに、その楽しさを忘れさせてしまうということだ。もともと、初めはビジネス上の文章だった。書き直したり、清書したりするのが簡単だという、ほんとに怠け者の精神が、僕から快楽を取り上げたのだ。そして、いつしか、私信までパソコンのお世話に。
最近では、Eメールの進展から、文章をプリントすることなく、直接誰かに送る、ということもまことに当たり前のようになってしまった。これでは、活字離れということが本当に心配されるのも無理はない。しかし、よく考えてみると、手書きから電子化への過程で、きっと文章は変質していったことだろう。文章から文書へと。これは実はとっても大変なことではないであろうか。近頃では、作家の中にも、パソコンで仕事をしている人が増えていると聞く。まあ、プロの皆さんですから、もちろん、これはいらぬ心配なのだろうけれど、手で書くことと、指で打つことの間には、けっこうな違いあるように思う。だから、今回、僕は手で書いてみることにしたのだ。そう、人体実験というやつだ。

文中の「怠け者の精神が、僕から快楽を取り上げた」とあるが、それはどんな意味か。

A.パソコンのおかげで、文章が簡単に書けるようになって楽しさが増した。
B.パソコンのせいで、いい文章が書けなくなり、楽しさが減少してしまった。
C.パソコンのおかげで、苦労せずに文章が書き上げられる快楽を感じている。
D.パソコンのせいで、苦労せずに文章が書けると同時に、快楽がなくなった。